親コンプレックス

 

 

  「産まれてこないほうがマシだった」と目の前で泣き叫んでやりたい気持ちと、私のことを愛しているその人を傷つけたくない気持ちで、めちゃくちゃになります。私は結局なにも言えず、言わず、コミュニケーションを放棄して、自分の部屋にこもって布団をかぶりひとりで声を殺して泣くだけです。そして泣きながらも、裕福とまではいかなくても借金さえなければ、とか、一刻も早くこの家から出ていかないと頭がおかしくなる、とか考えて、それでも最後にはどうすればあの人たちをしあわせにできるかと頭を過ぎります。私は突き放すことも、愛情をそそぐことも、そのふたつのバランスをとることもできずに、この苦しさがわからなくなるくらい薄くなるまで、現実逃避にただただ時間を費やすだけです。時間は解決してくれないとはっきり理解しつつも、あの人たちとの衝突をどうにも拒絶して、今日もまた、いつもと同じ夜です。

 

限界クソブログ

 

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ㅤ 死のうかな、と思っていた。

ㅤ 嫌い、つらい、いやだ死にたい死にたい死にたい、みたいなときもまああるんだけども、それよりも日頃から感じているのは、生きたい理由がぜんぜんない、ということだ。「若いうちにやりたいことをやりなさい」「なんかやりたいこと、ないの?」と私より長く生きた人たちが口を揃えて訊いてくるたびに、なんもないですと思いつつ、北海道に行ってみたいとか居酒屋でアルバイトがしてみたいとか、余計な話が膨らまないような答えを返していた。実際、北海道も居酒屋バイトもちょっとなんかいいじゃんね、と思う気持ちはあるけれど、でもそれより今すぐ死ねるならそのほうがよっぽどいい。だからといって、たいていは違う界隈を生きている相手に「死にたいです」と言うのはいろいろと面倒くさい。

 

ㅤ たとえば、うれしいことや楽しいことが一週間くらい続いて、自然にニコニコできて、帰り道の信号待ちで小躍りしちゃうような日々もときどきある。けれど私はそれでも「このボタンを押せば確実に一瞬で消滅できます」というボタンがあれば迷わず押すと思う。世の中に辟易して、とか、私なんて無価値だ、とかそんな大仰な理由じゃないし、毎日つらい目に遭っているわけでもない。ただ純粋に、生きることをしたくない。

  お風呂とか掃除とかの生活をするのもあんまり好きじゃないし、仕事で接したくない人と接さなければいけないとか、人との格差を感じて身勝手に傷ついたりとか、お腹がすぐ痛くなるとか、それ以外にも、生きているとあまりにたくさんのいやなことがずっとつきまとう。私は生きている上での自由も、不自由も、全然使いこなせていないのだと思う。生きたくない。めちゃくちゃ生きたくない。もっとも、めちゃくちゃしたくないことを常にしているから、生きていたくないんだろう。

 

ㅤ 死の願望って、精神状態を心配されたり、疎まれたり気味悪がられたりするし、「死にたい(生きたくない)」と言うと人によっては「なんてこと言うの!!」と激怒されることもあるじゃないですか。それがぜんぜん腑に落ちなくて、死の願望=悪いことみたいな感覚、なんで??と思う。人は、理由もなく死にたいと思うはずがない、みたいな感覚が身の周りに浸透しすぎてて、一体なんなんだ。その一方で、死を遠ざけたがるのは生物として自然な本能なんだろうなと感覚的に感じたりもする。そして根本から自分と違うものを警戒したり拒絶したりするのも、それぞれが自分の身を守るために必要なことだとすれば私は、なら仕方ないねと割り切るしかないのだ。

 

ㅤ 私には私の価値観、他者には他者の価値観があるんだから、と思い続けているうちに、正しくないと思うものを断罪するためのパワーをなくしてしまった。自分と相手は違うと線を引くことが相手を尊重するということだと念じてきたけれど、それを全うする私はほんとうにほんとうに無力で、泣いている人にかける言葉はおぼつかないし、塞ぎ込んでいる人に手を差し伸べることをもためらってしまうし、よくないことをしている人の頬を叩いて叱ってあげることもできない。そのどれもが愛情に違いないはずだけど、私と相手とじゃなにもかもが違うから、そうすることが本当に善なのか、相手を自己愛の捌け口にしているだけじゃないかと悩んでいるうちにすべて過ぎ去っていく。その思考自体が自意識過剰だと頭では理解していても、感情を操作できるかは別の話だ。そうして私がナルシズムに囚われている時間で、人はひとりで前を向いたり枷を切り捨てたりできるらしい。話が逸れたけど、とにかく、もう、なにも成し遂げられる気がしない。

 

  

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  「最近、やっとピンク好きって言えるようになった」「一線越えたね」「良い意味でね、成長したなって」「歳をとるって色んなことがどうでもよくなっていくってことかもね」「しがらみが減っていくのが嬉しいし、それを楽しめるようになりたいなって思う」「いかに今まで自意識で固められてたか思い知るよね」「ゴテゴテに固めてたよね」

  そら生きにくいわ、と、友人は続けた。

ㅤㅤ今でも、自意識を抱え続けている。意識の方向をさす矢印が、常に外側でなく内側を向いている。自分のことだけを見ている。つまり私は対人関係において、相手を鏡にしてずっと自分を見ているだけだった。自己を認識することと、他人は、本当に切り離せないのだろうか。鏡にうつさないと、自分の姿を見ることができないことを、諦めていいのかな。内側からでなく、自分の外側から「私」に触れられることで、私が初めて存在する。それを否定できずにいる。「私」は外側には行けない。

ㅤㅤ私は、私ひとりだけで私を認めてあげることが、これからもできないのだろうか。

 

 

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ㅤㅤここまで書いたことを、私はずっと肯定してあげたいと思う。人は、白い部分も黒い部分も必ず持っている。分別なんてできない。もし、これから私がどんなことを考えて、どんなふうに生きたとしても、今の私が確かに居たことを、忘れないでいる。

 

 

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ㅤ 私の人生において、生きている理由とか、たぶん、どうでもいいのだ。何もかもを誠実にこなすなんて無理だし、なんのために生きているかなんて、答えがなくてもいい。力を抜いてもいい。私の人生が素晴らしく豊かなものであろうが絶望的につまらなかろうが、どれだけ生きるための言い訳を探したって死には絶対敵わないのだ。あと、生きれば、いつか死ぬ。いつか死ぬから、私は大丈夫。生きているより死んでいたいと思っていたけれど、死は、今までも、これからもずっと、私の生きる希望だった。

 

 

 

 

 ㅤ死へ、愛をこめて。あなたに追いつける日が、心から待ち遠しい。 

 

 

(2020.01.28ㅤ編集済)